広島・原爆の日




今年も8月6日がやってきました。広島に原爆が落とされた日です。当時、広島市の周辺部、矢野町に住んでいた母は小学生で、校庭で朝礼中でした。大地が一瞬白く透けて見え、町内の自宅近くに爆弾が落ちたと思ったそうです。祖母は同じ町内の海岸で塩作りをしていました。すぐ近くに敵機が来たと思い、曾祖母と手を取り合って夢中で逃げたそうです。そのうち広島市内と隣接した安芸郡府中町の東洋工業(現在のマツダ株式会社)に爆弾が落ちたという噂が流れ、それなら親戚を助けに行かなければという話をしているうちに、東洋工業ではない、広島市内は火の海だという情報が入り、被爆した人達が次々と運ばれて来るようになり、祖母は看護にかり出されたといいます。
あの日、8月6日の午前中数時間の経緯を私は繰り返し聞いて育ちました。バスに乗れば、「もうこのあたりだと、大部分の人が死んだ」とか、あの日のことを祖母から聞いたものです。爆心地へ向かうバスの中で聞くと印象が強くて、私は子供の頃ずっと、市内へ向かうバスに乗るたび、生きて帰れない範囲に入ったなと頭の隅で思いましたし、帰りは府中町を通過する頃から微かにホッとする妙な感覚を持っていました。身近な被爆体験、あるいはその周辺の体験はざらにありましたし、学校では昼休みに原爆の体験記が校内放送されていました。昭和40~50年代、広島では原爆が昨日のことのように存在していました。
いくら核廃絶を訴えても核の保持が国力維持につながるという現実は悲しい世界ですね。
会社の疎開で広島に帰った女の子も、、64年前昨日のようです。
「新型爆弾・相当の被害」当事の発表です。
会社の疎開で広島に帰った女の子も、、64年前昨日のようです。
「新型爆弾・相当の被害」当事の発表です。
わりと近年になって知ったことですが
父の叔母が広島で原爆の犠牲になったそうです。
もともと岡山に住んでいて、父や兄弟も疎開していたのですが
叔母は何かの用事(仕事か勤労奉仕?)で出かけていたそうです。
広島、長崎の方々をはじめ
核実験場近くに暮らしていた人や、最近では劣化ウラン弾の影響で
多大な苦痛、苦労をされている人びとがたくさんいますが
表に出ることもなく顧みられることもなく過ぎていく世の中。
ちょっと悲しいですね。
父の叔母が広島で原爆の犠牲になったそうです。
もともと岡山に住んでいて、父や兄弟も疎開していたのですが
叔母は何かの用事(仕事か勤労奉仕?)で出かけていたそうです。
広島、長崎の方々をはじめ
核実験場近くに暮らしていた人や、最近では劣化ウラン弾の影響で
多大な苦痛、苦労をされている人びとがたくさんいますが
表に出ることもなく顧みられることもなく過ぎていく世の中。
ちょっと悲しいですね。
落ちた瓦礫に苔が。
時の経過を感じさせますね。
人々の記憶も苔で覆われてしまわぬよう
こういう記事をUPしてくれる人に感謝せねば、と思います。
時の経過を感じさせますね。
人々の記憶も苔で覆われてしまわぬよう
こういう記事をUPしてくれる人に感謝せねば、と思います。
まだまだ生乾きの64年前の歴史です。
(私を含めてまだ体験者がいるということです)
語り継がれて30年50年後にどう評価されるか聞きたいです.
今でも「どぷして、、、」には触れていません。
(私の独断と偏見です)
(私を含めてまだ体験者がいるということです)
語り継がれて30年50年後にどう評価されるか聞きたいです.
今でも「どぷして、、、」には触れていません。
(私の独断と偏見です)
昭ちゃんさん、新型爆弾と言われていたそうですね。当時、祖母が「これは殺人光線だ」と言ったら、「そういうことを言ったら憲兵がやってくるよ」と言われたそうです。
今日のその時間を、私は向洋駅の前で迎えまして、
サイレンの鳴り響く中、ただただ黙々と会社へと歩き続けました。
縁があって来たこの街ですが、この日は毎年すごく暑くて、
サイレンの音とともに、時間がぐっと還っていく感覚があって、
厳粛な気持ちになる一方、逃げだしたくなるほどの悲しみにおそわれます。
ここで生まれた人たちにとっては、もっと逼迫したリアルな記憶と感覚なんでしょうね。
サイレンの鳴り響く中、ただただ黙々と会社へと歩き続けました。
縁があって来たこの街ですが、この日は毎年すごく暑くて、
サイレンの音とともに、時間がぐっと還っていく感覚があって、
厳粛な気持ちになる一方、逃げだしたくなるほどの悲しみにおそわれます。
ここで生まれた人たちにとっては、もっと逼迫したリアルな記憶と感覚なんでしょうね。
長崎にも深い深い傷跡が残され決して消え去る事はありません
母は子供の頃天草で強烈な光と不思議な雲を見たと教えてくれました
決して繰り返えさない事を祈るばかりです。
母は子供の頃天草で強烈な光と不思議な雲を見たと教えてくれました
決して繰り返えさない事を祈るばかりです。
尚 nao.さん、そうですか、大叔母様が。あの日のたまたま広島へ来て亡くなられた方、学徒動員の勤労奉仕で出るはずが、その日たまたま病気で休んで助かった方、あの日の生死を分けた話がありますね。当時矢野町でも地区ごとに交代で、広島市内の建物取り壊しの勤労奉仕に出ていました。6日に当番だった地区からはかなりの犠牲者が出たと聞いています。ほんの数日の差で祖母もその一人になっていたかもしれません。核実験、劣化ウラン弾の影響など、広島の悪夢は過去のものになっていないのが恐ろしいです。
YUKIさん、崩れかけた建物を保存するというのはかなりの苦労があったようです。私もカメラで写すまで、中の様子をよく見たことがありませんでした。崩壊を防ぐためにあちこちに鉄骨で支えてあるようです。原爆に関する手記は無数にありますが、無数に記録していくことが大事なのでしょう。直接の体験者はどんどん少なくなります。もしも子供の頃から繰り返し聞かされた話があれば、それもできるだけ記録した方がいいのではと思います。誰かが生涯語り継いだ記憶なのですから。
昭ちゃんさん、記録は大切ですね。私の聞いた話は直接被爆ではなく、被爆者がどんどん運ばれてきた広島市周辺地域の記憶ですけれど。幸い今、ブログがあり、誰でも自由に書くことができます。ブログという媒体がどの程度将来への記録となるものか・・・私にはわかりませんけど。
ちゃりきさん、毎年8月6日の広島はいつもとどこか空気が違いますね。別に祈りの日を過ごすわけではありませんが、仕事をしていても、小さくコトンと揺れてから7日になります。そこに一年の小さな節が存在する感じです。
あかずきんさん、長崎の9日ももうすぐですね。天草からも見えたのですか。広島でも、今聞くとまさかと思うほど遠くの地域からでもきのこ雲が見えたそうです。


