鞆の陶片海岸について

まず、出てくる場所についてですが、今回の187個の陶片は非常に狭い範囲で拾っています。一つは「いろは丸展示館」のそばにある雁木の下周辺、もう一つは埋立予定地の干潟の東側ですが、雁木の下の、陶片が見つかった範囲は、地図で確認しても50メートルもありませんし、埋立予定地の方も、陶片が集中的に出てくるのはせいぜい100メートルくらいです。
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鞆に限らず広島の陶片海岸はとても狭いです。たとえば似島の長浜海岸の場合、陶片の出る範囲は200メートル程度、陶片のポイントが何箇所かに分かれている宮島の場合でも、それらを合わせて1000メートルを少し越える程度です。これは広島湾内の他の島や、呉線沿岸の干潟を歩いた場合も、陶片がある程度集中して出る場所はそんなものです。それらは河口周辺でなければ、かつてのゴミ捨て場の可能性が高いと思っています。

鞆の陶片海岸はどうでしょう。雁木のそばも、埋立予定地の干潟にも河口はありませんので、川の上流からの影響はなさそうです。万葉集の時代から港として知られていた場所で、積荷を満載した千石船がたくさん出入りしたはずですから、湾の海底には、運搬中に割れてしまった陶磁器など、船から投げ捨てられたものが堆積しているのではと思います。海底からの漂着があっても不思議のない場所です。ただ、ここは穏かな湾のなかですから、水面に浮かぶ他の漂着物と違い、海底から移動するにしても、大きな台風が来た時くらいかもしれません。むしろ、干潟の一部に異常に集中して陶片が出る様子など、ゴミ捨て場跡を思わせます。埋立予定地の西側には江戸時代に船の手入れや修理をした焚場遺構が残っているのですが、陶片集中地域は、その同じ干潟の反対側の端にあります。これなど、アサリの獲れる干潟の隅にゴミ捨て場があるのと似ています。とはいえ、まだ鞆との付き合いは始まったばかりですので、早急に結論は出せませんけど。

鞆は調べてみると、天然の良港だけあって、戦国時代の昔から埋め立てたり、人間がたえず手を加えて今に至っています。私は路線バスのおかげで鞆へ来ることができるのですが、そのバスが通る海岸沿いの道は戦後になって埋め立てた場所だそうです。朝鮮通信使の泊った対潮楼は今では道路の西側に、海岸からちょっと引っ込んだような感じで建っていますが、昔は波打ち際にあったわけです。それで対潮楼なのですね。下の写真は対潮楼と、その石垣です。石垣の全体写真を撮っておくべきでしたのに、石につけられた古い印の方が私は気になっていたみたいです。
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鞆港の外側の海岸線は既に昔のものではないのです。一方、湾の中ですが、雁木はもともと港湾施設ですし、県営桟橋だってありますので、雁木から東側には干潟らしい干潟はないようです。雁木より西側は、焚場遺構を含む干潟が続いているわけですが、聞いたところによると、焚場よりも西側のあたりは砂を入れているそうです。焚場遺構を含む200メートルちょっとが、江戸時代からの干潟というわけです。その東側に陶片の集中する場所があります。今回の埋立計画が実現すれば、どうやら江戸時代からの干潟は、焚場遺構の一部を除いて、ほとんど消えてしまうのがわかりました。埋立計画によると、この干潟も架橋後に新たに干潟を作ることで再生するんだそうですが、もちろん歴史の混じった土は失われますね。

次回は陶片そのものについてです。もう少し付き合ってくださいね。
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by touhen03 | 2006-06-24 10:43 |