2008年 06月 07日
砥部焼の里を訪ねて
〇ト印の陶片は広島でも2つ拾っていますし、りちょうけんさんも収集されています。 面白いのは写真左の陶片が型紙摺りであることです。岐のマーク付きの型紙摺り皿は稀に存在するようですが、砥部では昭和の初期まで型紙摺りを生産していたそうです。それどころか、お皿の表面をドーナツ状に剥ぐ、蛇の目釉剥ぎの量産方法が明治末以降むしろ盛んになり、大正時代も、それが主流であったそうです。
有田や瀬戸・美濃地域とはまるで別の時間が流れてでもいるかのようでしたが、それは理由がありました。砥部は明治末から昭和初期にかけて、東南アジアに食器を輸出し、全生産の7割にも達した時代もあったそうです。「伊予ボール」と呼ばれたそうです。できるだけ低コストで、粗製の食器を輸出することで成り立った砥部では、技術革新が遅れてしまっていたのです。その「伊予ボール」時代の器の一部が、地理的に近い広島に入ってきていたのです。戦後、手作りのやきものの里として再出発した現在の砥部焼ですが、そんな歴史もあったのですね。
量産食器の世界は、やはり一筋縄ではいきません。これらについては、もう少し整理してから、また取り上げようと思います。また砥部焼伝統産業会館で見せて頂いた発掘陶片の中には私が広島で拾ったものとそっくりなものが幾つもありました。これらも後でアップしようと思います。少し整理が必要なものが多いため、とりあえず次回からは砥部の川漁り、町歩き紀行です。