昔に比べると減ったとはいえ、花盛りの頃には、もうどこに隠れていたのかと驚くほど、鮮やかに咲いていた彼岸花も、広島市周辺ではそろそろ終わりかけています。その気で見てみると、川土手や田畑の周りだけではなく、意外なところにも咲いていました。
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 広島市西区井口明神あたりを歩いていて、ふと見ると街路樹の下に彼岸花。あそこにも、ここにも・・・ここは確か、埋立地。これは誰かが植えたのでしょうか?

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 こちらはアルパーク天満屋のそば。大きなショッピングセンターの横の空中歩道(こんな場所です→)の脇に咲いた彼岸花です。これも植えたのかしら。それとも、土に球根が混じっていたのかな?

最近、いつでもデジカメを持ち歩く不審者となってしまいました。
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by touhen03 | 2008-09-30 22:15 | その他

列車転覆大惨事を偲ぶ歌

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 鉄道遭難者追弔塔には、犠牲になった36名の名前が刻まれています。後に「富士」と呼ばれるようになったこの特急列車は、下関から鉄道連絡船で釜山へ、そしてシベリア鉄道からヨーロッパへと繋がる国際的な列車だったそうです。いろいろな人が乗っていました。犠牲者の中には東京日本メソジスト教会の伝道局長もいました。2歳の赤ちゃんもいました。鹿児島市長と、5歳になる子息もいました。事故現場を見たという祖母は、生前、外国人も死んでいたと言っていましたが、碑の中にコハノブスキー、オイウヰンドラーセンという名前を見つけました。お寺の資料によると、オイウヰンドラーセンさんはノルウェー、オスロ市の人で、大阪市川口東洋捕鯨會社と書かれていましたので、きっと捕鯨に関係する仕事で日本に来ていたのでしょう。コハノブスキーさんの方は名前以外は不明のようです。コハノブスキーさんは故国の親族と連絡は取れたのでしょうか。ノルウェーや、或いはどこかの国で、この列車事故を家族の歴史として伝えている人達がいるかもしれないと思いました。

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 最後にお寺の資料に載っていた、「列車転覆大惨事を偲ぶ歌」を紹介します。作詞は秋月四郎、当時広島市の新天地などでバイオリン片手に歌われたそうです。

一、ああ大正は十五年、時は九月の二十三夜、
             山陽線は安芸中野、聞くも哀れな大惨事
二、知るや知らずや黒煙、特急列車は轟然と、
              数多の旅客を打ち乗せて、全速力で進行中
三、いかなる神の戯れか、にわかに豪雨が襲いきて、
              かの恐ろしき激流に、無残や列車は転覆し
四、狭き車内の負傷者は、阿鼻叫喚の修羅の声、
          親は子を呼び、子は親を、呼びつ呼ばれつ雨の夜の
五、救いを求むる哀れさに、中野の村の人々は、
               村長三戸松始めとし、救助の道を施せり
六、数多旅客のその中に、鹿児島市長上野氏は、
              一子篤と諸共に、無残な惨死をとげにけり
七、上り下りの汽車の笛、いとど哀れを告げにけり、
              三十余名の霊魂は、中野の村雨とこしえに
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by touhen03 | 2008-09-27 00:12 | 骨董市・ガラクタ

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 運良く専念寺の住職さん(たぶん・・・m(_)m)にお会いすることができ、お寺にある資料を見せて頂くことができました。親切にコピーまでしてくださり、大変感謝しております。本堂等の修復記念に出版された本で、事故当時の新聞の抜粋、犠牲者の名前、生存者の話などが載っていて、なかでも境内にある鐵道遭難者追弔塔に関してのことが詳しく書かれていました。

 追弔塔は安芸郡選出の県会議員や中野村村長、村会議員、専念寺住職、社寺総代などが発起人となり、昭和2年に建てられていますが、その財源として、門信徒の浄財等以外に、なんと遭難当時の記念絵葉書8枚1組を20銭で売り、その利益金を当てていました!最初は10万部頒布の予定だったようですが、鉄道局の協力で3万部頒布した後は、なかなか売れず、5万部作製で打ち切り、頒布数は4万9800部だったとか。お寺の本には事故当時の写真が3枚載っていて、それは私が入手した絵葉書と同じものでした。ただし、残念ながら、それが記念絵葉書かどうかの説明はありませんでした。私の入手した絵葉書は、もしかしたら追弔塔建立のための記念絵葉書だったのかもしれません。もしそうなら、私の手元にあるのは7枚ですから、あともう1枚あるはずです。ちょっと気になります。そのうちどこかで出会うことがあるでしょうか。

追弔塔建立について、驚いたことがもう一つありました。境内に立てる追弔塔の建立許可願いを警察に出しているのはいかにもこの時代らしい気がしますが、その建碑許可申請書の中に、こんな一文がありました。「寺院佛堂ノ移轉若クハ公共ノ用ニ供スルノ必要ヲ生ジタルトキハ 行政庁ニ於テ 其碑表ヲ 棄却 又ハ移轉セラルヽモ支障ナシ」せっかく作ったのに、お上により勝手に棄却されてもよいと言っています。当時はここまでしなければ碑など建てることはできなかったのでしょうね。

 次回は犠牲になった人達についてです。
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by touhen03 | 2008-09-26 07:04 | 骨董市・ガラクタ

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 列車事故の犠牲者の遺体は近くのお寺、専念寺に収容されました。写真には中野と書かれた半被を着た人が写っています。救助に活躍したという地元中野村の消防団の人でしょうか。
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 こちらは残った文字の部分から、広島駅の階上に安置された遭難者の柩のようです。
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 現在の専念寺と本堂、境内にある鐵道遭難者追弔塔です。この慰霊塔に関しては、絵葉書との関連などいろいろなことが判りました。
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by touhen03 | 2008-09-26 04:57 | 骨董市・ガラクタ

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 82年前の事故現場を、私は毎日通勤列車に乗って通っていました。安芸中野駅を出てまもなく、列車の前方に見える鉄橋が当時、特急が転覆した場所です。
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 家から歩いてせいぜい20分。しかし通勤の道からははずれているし、田んぼや畑の中のこの場所に、今まで一度も来たことがありませんでした。
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 まさかこんな場所に鉄橋があるなんて、40年以上も近くに住みながら知りませんでした。川も道路も無いのに存在する鉄橋。これは事故後に水害対策として作られたのだそうです。もしもまた・・・水害があった場合ですね、ここから水を逃がして線路を守るというわけです。そんな恐ろしい理由で作ってたなんて。幸い川の治水は昔よりずっと良くなったのでしょう、最近は何十年も畑賀川は暴れることなく今に至り、鉄橋は忘れられてしまいました。けれども私が時々陶片を拾いに行くあの可愛い小川は、地域の歴史を知ると、決して舐めてはいけない川なのでした。忘れられた橋脚のそばには、犠牲になった人達を弔い続けるかのように、真っ赤な彼岸花がポツポツ咲きはじめていました。

 戦後は何十年も畑賀川は暴れることなくと、最初書いていましたが、戦後もしばらくは水害があったようです。私も親から聞いていたのですが、戦前の話と思い込んでいました。現在、畑賀行きのバス路線となっている川沿いの道が整備された頃から、決壊はなくなったようです。私の生まれた昭和30年代半ば以降は大きな水害はなかったと思います。
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by touhen03 | 2008-09-25 01:38 | 骨董市・ガラクタ

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 大正15年、9月23日、午前3時30分頃に起きたという転覆事故。死者36人、重軽傷者39人も出た大惨事だったようです。(フリー百科事典Wikipediaに、この事故の項目があり、死者34人と出ていましたが、遭難者が運び込まれたお寺の資料や境内にある碑文では36人となっています)事故に先立つ9月11日にも集中豪雨により畑賀川の堤防が崩れ、周辺で多数の死者が出る大災害が起きていましたが、この23日にも再び集中豪雨があったそうです。お寺の本には、当時の中國新聞の記事の抜粋が載っていました。それによりますと刻々と増水する畑賀川が再び洪水を起こすことを恐れた地元の人が単身見回りに出ると、午前3時過ぎ、畑賀川の仮堤防は崩壊し、線路に沿って既に大きな池となり、さらに安芸中野駅の方向に向かって歩いていくと、線路堤防が3.6メートル流出していたそうです。危険を知らせる間もなく、その人の目の前で転覆事故は起きたそうです。今なら、とっくに列車は不通になっている状況ですよね。今のように便利な通信手段は無かったとはいえ、地元の人が川の決壊を恐れて夜中に見回るような状況だったのですから、今とは安全に対する感覚が違っていたのでしょうね。

 絵葉書には、事故後、たくさんの人が集まっている様子が写っています。大勢の人が救助に駆けつけたそうですが、この人の山はそれだけの人数ではなさそうな気がします。事故現場周辺は当時は田んぼの広がる農村で人口も多くは無かったはずですから、かなり遠くから人々が集まってきたのではないかと思います。母方の祖母は当時16才の乙女でしたが、安芸郡矢野町(現在の広島市安芸区矢野)から(たぶん)歩いて見に行ったようです。(姉妹か、友達か、何人かで行ったのかも?)もしかしたら、この写真の群集の後ろの方にいたのかもしれません。
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by touhen03 | 2008-09-24 08:53 | 骨董市・ガラクタ

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 今から82年前の今日、大正15年(1926年)、9月23日。東京発、下関行きの特急列車が安芸中野駅~海田市駅間、広島県安芸郡中野村(現在の広島市安芸区中野)付近で脱線転覆事故を起こし、多数の死者を出しました。私が時々陶片を拾いに行く近所の小川の堤防が集中豪雨で決壊し、流れ出た水によって線路の土手が崩れたのが原因でした。現場は隣村とはいえ、私の住む地域から近く、当時は家の近所からも救助活動に参加したそうです。私の父はその当時まだ生まれていませんでしたが、事故の話を親達から聞いていました。また母方の祖母は事故現場を見に行っており、私はその話を子どもの頃から聞いていました。40年以上もの間、私にとって、親達の断片的な話だけで存在していた事故でした。

 ところが、先月の瀬野川河川敷骨董市で、この絵葉書を見つけました。これ以上ないほどボロボロの7枚の絵葉書には、「大正十五年九月廿三日廣島縣中野村ニテ特急一二等列車顚覆ノ惨状」(原文は右横書き)などと書かれ、転覆して破壊された列車や線路の様子、事故現場に集まった群集、収容された遺体や柩が細かく写っていました。絵葉書の中には文字の部分が朽ちてしまっているものもありましたが、他の写真と比較して、同じ事故の写真と判断できました。

 その気になって調べてみると、日本の列車事故としてはけっこう有名なものらしく、ネットでも幾らかの情報を得ることができましたし、JRにも問い合わせてみました。また、事故現場にも初めて行き、写真も撮ってきました。これから何回かに分けてアップしようと思います。
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by touhen03 | 2008-09-23 01:01 | 骨董市・ガラクタ

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 ここはどこでしょう。厳島神社の正面、国宝平舞台の床下です。干潮時は神社のそばまで歩いていけますから、蟹のように這い寄って写しました。
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 ほら、平舞台の上は観光客でいっぱい。朱の大鳥居とともに宮島観光の目玉なのです。平舞台は大鳥居の方向に火焼前(ひたさき)と呼ばれる突き出しがあり、管弦祭の出御、還御はここから行われます。平舞台の上に組まれた高舞台では舞楽が舞われます。床下の写真を見ると、板敷きに隙間が見えますでしょう。子どもの頃、これを見て、なんて雑な造りなんだろう、建築中の家みたいじゃないかと思いました。確かに何も知らずに見ると、遠目にはきれいだけれど、緻密な美しさに欠ける感じがしてがっかりします。でもこれ、実は計算されたものなのだそうです。満潮時は海に浮かぶ構造の厳島神社、平舞台の板の隙間によって波の圧力をもろに受けないようにしているのだとか。
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 上の灯籠の土台になっている石垣に彫られていた文字です。宮島にある、石で作られたものは丁寧に見るとおもしろいです。江戸時代を示す文字がいろいろな場所に見つかります。陶片がザクザク出ていた頃は、拾い終わった頃には潮が満ちかけていましたし、疲れてしまって風景の細かい部分まで見るゆとりがありませんでしたが、今になって私の拾った陶片たちと同時代の痕跡をあちこちに発見しています。寛政なら1789~1800年頃のようです。18世紀後半!この時代の陶片は宮島でたくさん拾っています。私のコレクションの中心と言ってもいいかもしれません。村上一心、これは何でしょうね。ひょっとして村上水軍の末裔達が寄進したのでしょうか?

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 広島に住んでいると、子どもの頃から遠足などで宮島へ何度も行きます。そして大人になると、潮干狩りか、花火大会や管弦祭か、県外の人を案内する時くらいしか宮島へは行かなくなります。でも、ほんとうはドキドキがいっぱい、発見がいっぱいの場所なのです。
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by touhen03 | 2008-09-20 00:50 | 宮島

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 真横から見た厳島神社の朱の大鳥居です。そばで見ると迫力があります。
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 柱は像の足みたいです。皮膚の様子についてはこちらをどうぞ。横木の上には怪しい小石が。そういえば神社の鳥居にこの手の石が乗っているのをよく見ます。
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 若いカップルが一生懸命石投げをしてました。こうやって小石は増えていくようです。

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by touhen03 | 2008-09-19 01:50 | 宮島

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 久しぶりの陶片拾い。久しぶりの宮島。最近はあまり陶片が出なくなりましたが、何かの拍子にすごいモノが出ていないとも限らない・・・と、一応は期待しましたが、来てみると今年も干潟は一面アオサで覆われていました。それでなくても陶片少なくなっていますのに。
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 このアオサ、海水の富栄養化のせいだそうですが、陶片の敵です。夏場は特によく繁茂します。よくもまあこんなに一面広がったものです。陶片のポイントにもびっしり。諦めきれず、確立の高そうな場所のアオサを多少は足で寄せてみましたが、そんなことではどうしようもないです。
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 今回拾った陶片はこれだけ。条件の悪さを考えれば、まあまあなのかもしれません。土器の破片と江戸陶片が少し。土器片の上にある小さな染付皿の破片にはコウモリ文らしきものが描かれています。私が好きな江戸時代のコウモリさんです。近代の型紙摺りや銅版転写の皿、銅版転写の瀬戸のタイルもあります。このタイルの模様もよく見るとコウモリっぽいですけどどうかしらね。
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by touhen03 | 2008-09-17 23:58 | 宮島