2009年 06月 18日
戦前の砥部焼の可能性が高い器たち
銅版転写が量産皿の絵付の主流となった明治後半~大正時代にかけて、他の大産地ではもう、こんな目立った傷跡の付くやり方はしなかったそうですが、主に東南アジアなどに、「伊予ボール」と呼ばれた安価な食器類を輸出していた砥部ではその後も、こんな素朴な作り方をしていたそうです。砥部以外にも、古い技術のままの生産を続けていた産地があったのかどうか、私は知らないので、これらがすべて砥部産かどうかは自信がありません。ただ砥部で見てきた、当時の器と特徴が似通ったタイプが一定数、確実に出てきますので、見つけたら必ず拾うようにしています。
これらの食器の絵付けに使われた銅版は専門の業者がいたことでしょうから、絵柄で砥部産かどうかを見分けるのは無理があることと思います。けれども、このタイプに多い柄というのは確かにあります。この写真上段左端の菊の小皿は鞆などでもよく出てきますが、今まで拾ったものの多くに目跡がありました。特定の絵柄=砥部ではなくても、砥部に多いデザインというのは多少ありそうです。
砥部町のある愛媛県と広島は地理的に近いです。砥部産の食器はそっと、戦前の広島の庶民生活の一部を支えていたはずです。戦後の砥部では、質の良い、手作りの食器を作り続けています。それとはまるで別物にさえ見える戦前の砥部産日常雑器たち。空気が意識されないように、水が顧みられないように、食べ物を盛られては、手早く片付けられ、割れたら惜しげもなく捨てられた器たち。それでも時を経て眺めれば、大量生産の結果だとしても、絵柄のズレや、ちょっと時代遅れの技術の跡が、おおらかで素朴な雰囲気を持っています。戦後の民芸っぽい手作り食器も素敵です。でも私は「伊予ボール」時代の砥部焼だって捨てたもんじゃないと思っています。
目跡のある銅版転写皿が広島県外ではどの程度出てくるのかも興味を持っています。見つけたら教えてくださるとうれしいです。