2008年 07月 12日
鞆の陶片・砥部焼かな???
型紙摺りは模様で産地は判らない。銅版転写も、たぶん同じようなものなのかも。しかし、もしかしたら産地によって多少好みの差がありはしなかったでしょうか?海岸や川で拾った陶片の素性は100パーセント判らなくても私はいいのです。この特徴があるものは~の産地の可能性が高いとか、このデザインは他の産地にもあるけれども、一番よく作っていたのは~の産地だとか、そこまで判ればなあと思います。そうなれば、拾った陶片の一つ一つは判らなくても、広島で出てくる近代陶片のうち、例えば戦前の砥部焼の可能性がやや高いものは~%くらいある、その程度なら判るかもしれませんよね。
かつて生きていた無名の人々の一人一人のことは判らなくても、無名の人々世界は追いかけることができる。何しろ私が拾っているのは、人生で一番身近な、どんな人でもお世話にならない訳にはいかない茶碗や皿です。現代でも、家で大切にしている食器と、日常一番よく使っている食器が違う場合も多いのではないかしら。安くて丈夫で、何にでも使いやすい、そしていつか割れたり、欠けたりして消費される日常食器たち。毎日の大切な仕事を請け負いながら、忘れられたモノたちが大量に、しかし実に静かに海岸や川に眠っています。これにもしも口がついていたなら、どんなにか騒がしいでしょうにね。