2006年 06月 30日
久しぶりの似島




2006年 06月 27日
鞆の陶片の第一印象
私は広島の陶片海岸について、陶片密度、陶片の時代と種類、陶片の保存状態、海岸ごとの個性、この4つの観点から考えています。
1.陶片密度
一定の範囲内にある陶片の数からの分類です。ただし、それぞれの海岸で正確に数えたわけではなくて、実は単に拾った時の印象です。(^^ゞ これまで広島では似島の海岸が一番でした。よく「陶片が佃煮にするほどある」と表現してきた場所です。(便秘になりそうな佃煮ですこと・・・)宮島も陶片は多いのですが、幾つもある陶片スポットも「陶片が密集している」というほどではありません。その点では、鞆の陶片海岸、特に埋立予定地にある場所の場合、この密集度は一目見ただけで凄いです。私が知っている範囲では、広島で一番かもしれません。
2.陶片の時代と種類
(1)17世紀以前の陶片や、生活必需品以外の江戸陶片が出るか
江戸陶片は案外どこでも出ますが、18世紀半ば~幕末頃のものが大部分です。この頃、磁器或いは半磁器の食器が普及したためのようです。確かに広島のどこの海岸でも、線を引いたように、出てくるのは古くても18世紀半ば~後半頃に作られた、くらわんか茶碗や皿までです。それよりも古い、特に17世紀以前の陶片が出たのは、今のところ宮島と、呉市倉橋島の鹿老渡、海岸ではありませんが、八幡川河口付近くらいです。川の場合はどの場所から出たものかが判りにくいのですが、宮島は昔からの信仰&観光の地、鹿老渡は鞆と同じ、昔栄えた港です。鞆はその点、17世紀の肥前系青磁皿が出ました。表に模様が彫られた高級品で、当時の庶民には無縁のものです。(下の写真)18世紀前半くらいまでの唐津、或いは唐津かもしれないものも出ました。




拾った鞆の陶片の主な構成を見てみると、保命酒瓶(主に明治~戦前くらい?)が約35%、明治~大正(印判は昭和戦前の可能性もあるが含む)約26%、江戸陶片(それより古い可能性のあるもの、江戸陶片かもしれないものを含む)約18%、昭和と判るもの約11%、その他10%です。近代陶片の中に江戸陶片が少し混じるという構成は、他の広島の海岸の方に似ていて、ほぼ毎回、過半数を近代以前の陶片が占める宮島とは違います。ただし、例えば、今年3月30日の似島では82個の陶片を拾っていますが、このうち江戸陶片か、江戸陶片かもしれないものは7個です。「今日は江戸陶片が多いなあ」という印象を持った日でしたが、それでも拾った陶片の中の江戸陶片の割合は8.5%程度です。鞆の場合、海岸の状態を知りたくて、似島だったら拾わないかもしれないような保存状態の悪い近代陶片でも拾っていますから、鞆の近代以前の陶片率は、広島の海岸の平均より高いとは思います。
3.陶片の保存状態
宮島では、くらわんか茶碗が1/4~半分欠け程度の大きな破片で出てきます。近代陶片では、似島・長浜海岸の保存状態が飛び抜けていて、半分欠けくらいはザクザク、たまに完品も拾えます。八幡川河口付近の陶片は種類も多く、質も良く、古いものが出ますが、高台部分だけだったり、摩滅していたり、小片だったりすることが多いです。もっとも、たまに驚くほど保存状態の良いものが突然ころんと出てきて驚くことがありますけど。その他の海岸や川は、近代陶片については大きなものが出る場所は多いですが、、江戸陶片は高台付近や縁の小さなカケラの場合が多いです。鞆の場合はというと、今回の結果を見る限り、不思議なことに保存状態は保命酒瓶以外は良くないです。他の海岸並みでしょうか。理由は解りません。ただ明治の染付印刻小皿の大きな破片も出ていますから、保存状態については、何回か通わないと解らないかもしれません。下の写真は私が住む海田町を流れる瀬野川河口付近の陶片です。よくある保存状態はこんなものですが、鞆の陶片も、今回はあまり変わりませんでした。


4.海岸ごとの個性
同じ広島の海岸でも、場所によって、そこだけに多く出る陶片というものがあります。たとえば宮島なら土器。古い時代から陶片が堆積しているのでしょう。似島の場合は緑の二重線が縁にある器や統制番号陶片、それに防衛食容器。昭和の陶片でどこにでもあるとはいえ、大小さまざまな破片がどこよりもたくさん出てきます。戦前は島に軍の施設があった影響なのかどうかは解りません。大久野島からは毒ガス工場関係の容器の破片が幾らでも出ていました。(聞くところによると、砒素が出て問題になった後、安全対策の結果か、陶片が見られなくなったそうです。一度行って確かめてみる必要がありそうです)そして、鞆では保命酒の容器です。昔の保命酒作りでは、割れた容器を海岸へ捨てていたそうですから、鞆の場合は、生活ゴミの堆積場所であると同時に、昔の産業廃棄物捨て場でもあったわけです。それぞれの陶片海岸の個性は、その土地の歴史と強く結びついていそうです。
こうやって見てみると、鞆の陶片の素質はかなり良さそうです。陶片密度が高いのは、陶片の状態から見て、場所の保存状態が良いというよりも、ゴミ捨て場の規模そのものが大きかったのかもしれません。(この点、似島の場合は逆で、ゴミ捨て場の規模は小さくても、保存状態が良いのでは???と思っています)古くからの港だったため、海岸線は昔からたえず人の手が入っているようで、18世紀末にも大掛かりな工事をしているようですから、宮島ほど古いものが拾えるかどうかは判らない気がします。それでも千石船や保命酒で栄えた、かつての鞆の繁栄を考えると、上手の伊万里や、文房具など趣味性の高いものが出てくる可能性は高そうですし、中国陶磁なども出る可能性はあると思います。海底に堆積した陶片の漂着がどの程度あるのかにも興味があります。出会ったばかりの鞆の陶片ですから、何を語るにも、もしかしたら~かも、ひょっとしたら~では、となってしまいますが、これからの出会いが楽しみです。ブログに不似合いな、やたらに煩雑な内容になってしまいましたが、ある程度陶片が溜まった頃に、改めて「陶片窟」で取り上げようと思っています。
2006年 06月 24日
鞆の陶片海岸について


鞆に限らず広島の陶片海岸はとても狭いです。たとえば似島の長浜海岸の場合、陶片の出る範囲は200メートル程度、陶片のポイントが何箇所かに分かれている宮島の場合でも、それらを合わせて1000メートルを少し越える程度です。これは広島湾内の他の島や、呉線沿岸の干潟を歩いた場合も、陶片がある程度集中して出る場所はそんなものです。それらは河口周辺でなければ、かつてのゴミ捨て場の可能性が高いと思っています。
鞆の陶片海岸はどうでしょう。雁木のそばも、埋立予定地の干潟にも河口はありませんので、川の上流からの影響はなさそうです。万葉集の時代から港として知られていた場所で、積荷を満載した千石船がたくさん出入りしたはずですから、湾の海底には、運搬中に割れてしまった陶磁器など、船から投げ捨てられたものが堆積しているのではと思います。海底からの漂着があっても不思議のない場所です。ただ、ここは穏かな湾のなかですから、水面に浮かぶ他の漂着物と違い、海底から移動するにしても、大きな台風が来た時くらいかもしれません。むしろ、干潟の一部に異常に集中して陶片が出る様子など、ゴミ捨て場跡を思わせます。埋立予定地の西側には江戸時代に船の手入れや修理をした焚場遺構が残っているのですが、陶片集中地域は、その同じ干潟の反対側の端にあります。これなど、アサリの獲れる干潟の隅にゴミ捨て場があるのと似ています。とはいえ、まだ鞆との付き合いは始まったばかりですので、早急に結論は出せませんけど。
鞆は調べてみると、天然の良港だけあって、戦国時代の昔から埋め立てたり、人間がたえず手を加えて今に至っています。私は路線バスのおかげで鞆へ来ることができるのですが、そのバスが通る海岸沿いの道は戦後になって埋め立てた場所だそうです。朝鮮通信使の泊った対潮楼は今では道路の西側に、海岸からちょっと引っ込んだような感じで建っていますが、昔は波打ち際にあったわけです。それで対潮楼なのですね。下の写真は対潮楼と、その石垣です。石垣の全体写真を撮っておくべきでしたのに、石につけられた古い印の方が私は気になっていたみたいです。



次回は陶片そのものについてです。もう少し付き合ってくださいね。
2006年 06月 22日
鞆の陶片を分類してみました




ちょっと煩雑になりますが、以下は拾った全陶片、陶製品の内訳です。
保命酒瓶65(内、狸徳利51)、樽・甕・保命酒以外の酒瓶?など6、
古いすり鉢(江戸?)1
17世紀の青磁1、江戸時代の唐津、或いはその可能性のあるもの3、
陶胎染付2、18世紀半ば~幕末の染付18(碗・湯呑11 蓋2 皿5)、
水滴1※、18~19世紀の段重2、幕末の瀬戸・美濃系2(湯呑1、蓋1)
江戸時代かどうか迷うもの3(皿2、蓋1)
※ 水滴は江戸時代の肥前系は底が無釉らしいが、これは無釉なのかどう
か、ちょっと微妙でわかりにくい。一応全体の雰囲気から江戸時代に分類
明治か、明治の可能性が高い印判以外のもの8(染色体湯呑か盃1、
染付印刻小皿1、手描きの碗・小鉢3、蛇の目釉剥ぎのある小皿2、
色絵染付皿1)
型紙摺りタイプの印判28(皿・小鉢類14 飯茶碗・蓋8 薄手の小皿2 湯呑2 小瓶1 青磁釉小皿1)、銅版転写タイプの印判12(小皿3 鉢3 いげ皿1
徳利1 碗?1 タイル3)
昭和のもの19(緑の縦じまタイプ6 それ以外のゴム印タイプ4
統制番号の小片2 東陽軒平八製1 硬質陶器っぽいもの1
味噌屋さんの名前の入った皿1 おろし金1 フック1 その他2 )
その他16(焼きしめの盃1 ごく小さな土器皿の小片1 備前風の小さな盃1 人形の足2 便器1 沈子10)
たった2日間拾っただけですが、分類してみると、それなりに特徴が出ています。鞆の町の歴史的な変化などを考えながら、今の時点でわかることをまとめてみたいのですが、時間がなくなったので、これは次回の記事にします。
本来は陶片窟で取り上げる内容ですが、これから何度も行って、この手の資料が集まった時に、改めて陶片窟でまとめたいと思っています。他の陶片ブログは図鑑的なものにしていきたいと思っていますので、陶片茶房にアップしました。
2006年 06月 21日
干潟の保命酒瓶たち その2







2006年 06月 20日
干潟の保命酒瓶たち





これらの大部分は、内側の様子から、たぶん戦前の、ある程度古い保命酒瓶のようです。中に少し、新しいのではと思える破片も混じっています。この先、もう少し知識がつけば、江戸時代のものを見分けられるようになるのではと思っています。
2006年 06月 20日
鞆の保命酒屋さん




鞆は不思議な町です。町のお店屋さんが、ここの文化についての「学芸員さん」だったり、質の良い資料館を作っていたり、文化財を守っていたりしています。
2006年 06月 19日
鞆のお使い猫





16日に再び鞆へ行ってきました。たくさんの陶片を持ち帰り、現在バテていますが、また、ぼちぼちアップいたします。
2006年 06月 13日
鞆港を歩く その3


鞆の町や海岸を歩いて思ったことを書こうと思ったのですが、今、未消化なものが多すぎます。ここは昔の港湾施設の5点セット(常夜燈、雁木、波止、焚場、船番所)が残っている場所と言われていますが、実は6点セットです。港自体の他に、港町まで残っているのですから。ここの町は大八車に合わせて作られ、港は木造船に合わせて作られています。確かに現代人にとってはどんなにか不便なことでしょう。同時に、人間は僅かな間に、化け物のように巨大化したんだなと思いました。ここへ来ると昔の人の生活のサイズがわかります。鞆の町を紹介する写真を撮ったつもりだったのですが、後で見ると、観光ガイドブックの写真をヘタクソにしたようなのばかり。何度も通っているうちには、ここの雰囲気を伝える写真が偶然撮れるかもしれませんので、そのときアップすることにしました。
観光資源になる、さわりの部分だけ残しても、貴重な世界を残すことはできないでしょう。これは生物の生態系と同じだと思うんです。埋め立てた後で、養浜とか言って、人工の浜辺を作るそうです。再生するんだそうです。その土地の土には、生物だけではなく、人間の歴史も棲息しています。土の歴史も再生するんでしょうか・・・
でも私はそこに住んでいるわけではないです。便利な場所に住みながら、そこに住んでいる方達に不便を我慢しろなどとは言えないです。私はこれから、できるだけ時間を都合して、埋め立て予定地や、きっと影響を受けるはずの場所を歩いては、そこから何が出てくるか拾ってみようと思います。埋め立ての是非ではなく、もしも実現すれば、どんなものが埋め立てられるのか、具体的に記録してみようと思います。埋められるもの目録です。なーんだ、ゴミばかりじゃん、安心した。なんて言われそうな気もしますけど。
2006年 06月 12日